2月10日に大阪歴史博物館で行われた香川県小豆島町主催の「大坂城石垣と石切丁場シンポジウム」に参加しました。募集定員をすぐにオーバーするほどの人気だったそうで、講師の先生方も徳川期の大坂城石垣やそれぞれの地域の石切丁場のことを熱く語られ、熱気あふれるシンポジウムとなりました。
今回は、シンポジウムに参加しての感想と、そこで紹介された石切丁場の参考例として、筆者が以前参加した石切丁場の紹介をしたいと思います。
図1.岡山県瀬戸内市牛窓町前島の位置
講演の内容を列挙しますと、以下のようになります。基調講演として滋賀県立大学の中井均氏が「大坂城を支えた石-城郭史上最強の石垣-」と題して徳川期の大坂城が日本の城郭史のなかでどのように位置づけられるのか、また、これまでは石垣の構造研究に焦点があてられていたが、石垣石材として花崗岩が重視されていることに注目すべきであることが報告された後、研究活動報告として4本の報告がありました。
1本目は西宮市教育委員会の森下真企氏が「大坂城石垣の産地、東六甲石丁場跡の調査報告-佐賀藩鍋島氏に思いを馳せて-」と題して、新たに「大坂城石垣石丁場跡」として史跡に追加指定される「東六甲石丁場跡」の実態を解明していった過程と、史跡指定に至る経過が報告されました。
2本目は「石切り技術を未来に伝える鍛冶技術」と題し、高尾石材株式会社の藤田精氏が石工の鍛冶仕事の復元研究の過程や、石工技術を継承していくことの必要性と、現在の取組みについて発表されました。
3本目は「丸亀市指定塩飽本島町高無坊山石切丁場跡について」と題して「丸亀城石の会」の遠藤亮氏が、地元の研究グループが大坂城の石切丁場の姿を明らかにしていった10年にわたる研究の過程とその成果を報告されました。
4本目は「重なるふたつの大坂城-発掘調査成果から-」と題して大坂城の発掘調査を担当した大阪府教育庁の市川創氏が山里曲輪の雁木部分の調査や石垣面に開口する石組溝に繋がる集水桝遺構など、徳川期大坂城の発掘調査事例について発表されました。
今回報告された西宮市東六甲の石切丁場や丸亀市の高無坊山石切丁場の報告では、割られる寸前と思われる矢穴が彫られた石材や、直方体に加工された石材が折重なって密集する姿、積み出しを待つように海岸に並べて置かれた石材の画像などが紹介され、当時の人々の息づかいが聞こえてくるような感覚を覚えたのは、筆者だけではないのではないでしょうか。
写真1.岡山県瀬戸内市牛窓町前島の矢穴を穿つ岩盤
写真2.前島の矢穴を穿つ岩盤と割り取られた石材
これらの石切丁場の様子を見ていますと、以前筆者が参加させていただいた岡山県瀬戸内市牛窓町前島(図1)の石切丁場の姿(写真1〜4)が思いおこされました。調査は1997年に実施されたもので、石材に残る刻印から松江堀尾家の石丁場と考えられています。シンポジウムで報告のありました丸亀市の高無坊山と同じように、石材を海岸まで下ろす谷筋があり、「岩くだし」「丁場」などの地名が残っています。山中に放置された折重なる石材や、岩盤に残る矢穴の跡を目の当たりにした時には、当時の喧騒が聞こえてくるように感じたものでした。
写真3.直方体に割られ並べられた石材
写真4.分割のための割付線が刻まれた石材
このような石切丁場が小豆島島内に13ヶ所もあり、備讃瀬戸の島々の多くが石切丁場となっていたことが資料集の中で紹介されています。大坂城の研究にとって、これらの石切丁場の保存と研究が大切なことであることを再認識する一時を過ごすことができたシンポジウムでした。
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