これまで本コラムでは、大坂冬の陣で徳川方の陣地となった茶臼山と御勝山について取り上げました。今回は現在注目を集めている真田丸について、大阪市内の遺跡発掘調査や研究を精力的に進めている公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所の市川創さんに紹介していただきます。
昨年は豊臣家が滅亡した大坂夏の陣から400年。いろいろなイベントが企画され、全国の歴史ファンが大阪に注目した年でした。そして2016年に入りNHKの大河ドラマ『真田丸』がスタート。今年も大阪に注目が集まりそうです。
ただ、大坂冬の陣で徳川方の大軍を退けたことで有名な真田丸ですが、その実態となると、実はよくわかっていません。
それもそのはず、冬の陣の講和後に、徳川軍によって真田丸は完全に破壊されてしまったからです。ただここ最近、真田丸への注目を受けて、新たな根拠に基づく復元案が複数提示されています。今回のコラムでは、それぞれの復元案を見比べながら、いまいちど、真田丸の実態について考えてみたいと思います。
図1.大坂冬の陣配陣図
まず、真田丸の位置とおおよその構造を知るために、仙台の伊達家に伝わった『僊台武鑑』所収の「大坂冬の陣配陣図」を参照したいと思います。
この資料は、大坂城の南方に作られた築山(城攻め用の人工丘)などから大坂城を見たようすを描いたものと評価されています。そのため、描かれていない部分、表現があいまいな部分などもあるのですが、大坂の陣の実際のようすを知ることができる史料として、「大坂冬の陣図屏風」(図2)とともに頻繁に引用されています。この図をみると、真田丸は大坂城の南東に位置し、惣構の堀と接して、そこから突出するような形をしていることがわかります。
図2.「大坂冬の陣図屏風」より、真田丸部分
では、惣構の南面堀はどこにあったのでしょうか。この南面堀も冬の陣の後に埋められていますが、幸いなことに、真田丸がとりつく東半については自然地形を利用しているため、現在も凹みとして地形に堀の名残を見ることができます。
また、発掘調査でも、堀の痕跡が複数個所で見つかっており、おおよその位置がわかっています(図3)。ここでポイントとなるのは、南面堀の東半は自然の谷を利用したものですが、これまでの発掘調査から、その谷底をさらに人工的に掘り窪めたことが確実なことです。惣構南面堀との位置関係などから、真田丸が小高くなったその南の部分、図3で「真田出丸」とした一帯に存在したことはまず間違いないといってよいでしょう。
真田丸については、このように概要を知ることができます。ただ問題なのは、それが現在のどの場所に、そしてどれくらいの規模で存在したのか、です。私たち大阪文化財研究所は主に発掘調査成果から大阪の歴史を考えていますが、残念ながら真田丸についてはこれまで直接的な成果が得られていません。また、大坂冬の陣の後に破壊されたため、現在の地形から明瞭に真田丸の跡地を想定することも不可能です。そのため、現地形、絵図、文献史料、古写真などから、さまざまな復元案が作成されています。
図3.豊臣後期の復元古地理図
現在の真田丸想定地を歩くと、崖や急な坂が多くあることがわかります。図4には、この崖の位置と落ちの方向を▼印で示し、併せて、近年公表された真田丸の復元案のうち代表的と思われるもの、また復元の根拠となる情報も示しました。
復元図を見比べると、各案とも「ア」とした部分を真田丸の中心(以下では「主郭」とします)と考えることには異論がないようです。
いっぽうで、①主郭の範囲、②主郭北側に小規模な曲輪(陣地)を想定するか、③主郭東西の曲輪をどのように復元するか、については、各案で違いがあります。それぞれについてみていきましょう。
まず南端についてみます。これまでは地形図や航空写真による推定が行われてきましたが、昨年実施したレーダー探査で、図4-オの位置に地下に落ち込みが認められることがわかりました(『歴史秘話ヒストリア』)。明治時代の地図をみると、図4-オと対応する位置に東西に延びる帯状の街区が認められます(図5)。したがって、図4にカとして示した部分が真田丸主郭の南を画する堀に該当するものと考えます。
次に主郭の東端です。これについては現在の心眼寺坂(図4-イ)に想定する説と、心眼寺坂の東にある寺院群の東(図4-ウ)に想定する説とがあります。考古学的な証拠はないのですが、寺町の東側にも地形の段差を観察することができます(写真1)。そのためどちらかといえば、後者の方が可能性が高いものと考えます。
図4.近年の真田丸復元案と復元根拠
図5.『大阪実測図』
写真1.小橋寺町北端の高低差(北東から)
この点については、広島の浅野藩に伝わった『諸国古城の図』に含まれる「真田丸図」(図6)をどのように評価するかによって、意見がわかれています。『諸国古城の図』については17世紀に成立したとする説が主流ですが、この「真田丸図」については、江戸中期に作図された、あるいは江戸後期に作図されたとする説もあります。時期の評価はここでは行わないこととしますが、軍学の資料とするため、実際に現地を訪れて描かれたもの、という評価は一貫しています。
図の北側、本来は惣構の堀(冬の陣で埋め立てられた)が存在すべき場所に道のみが描かれていることも、この図が伝聞のみでなく実際に現地を見て描かれたことの傍証でしょう。この図で注目すべき点は多くありますが、ここでは寺院群の北側に「浅キ堀」に囲まれる「二十間程」の曲輪が描かれていることに注目します。この「浅キ堀」について、惣構の名残と解釈するか、より積極的に小規模な曲輪の存在を想定するか、で評価が分かれているのです。この部分も南側には崖がありますので、私は、この場所に堀を想定することも可能であると考えます。
図6.『諸国古城の図』所収の「真田丸図」
主郭の東西に柵で囲まれた曲輪を想定するかどうかも、意見のわかれるところです。東西に曲輪を想定する場合の主たる根拠となるのは、「大坂真田丸加賀衆挿ル様子図」という史料です(図7)。西側の曲輪の存否についてはあまり証拠を集めることができませんが、東側については、真田幸村(信繁)の銅像や「抜け穴」で有名な三光神社などがある高台になっています(写真2)。主郭の防御上、この高台を徳川方に占拠されるのが好ましくないのは自明ですので、「大坂真田丸加賀衆挿ル様子図」が伝える柵に囲まれた曲輪を設けることは合理的です。
図7.「大坂真田丸加賀衆挿ル様子図」(トレース図)
写真2.「真田山」東側の崖(南東から)
図8は、図4に示した各案に、執筆者独自の考えも加えて作図した真田丸の復元案です。この図では、主郭の北を囲う堀は『諸国古城の図』が伝えるとおり水堀として、また西を囲う堀は空堀として復元し、ともに惣構の南面堀に接続するものと考えました。南面堀は想定される底面の標高から考えて、西堀が接続する部分は空堀、北堀が接続する部分は水堀であった可能性があるからです。
なお、北堀想定地では数件の試掘調査が行われており、その成果を反映して作図しています。また、『諸国古城の図』を重視する研究者の復元案では、惣構の南面堀が単なる谷として表現されていることがありますが、これは正しくありません。惣構の破却後に描かれた同図には表現されていませんが、かつての南面堀が谷の底部をさらに堀として掘り窪めたものであったことが、複数の発掘調査成果によって証明されているからです(積山2000、市川2015)。
図8.真田丸の復元案
主郭の南堀は、先にみた探査結果からこの位置に想定しましたが、図8-Aの位置には南へ下がる段差があり、やや不安要素があります。主郭の北側、Cの位置に小規模な曲輪があったかどうかは判然としませんが、もし存在したとすれば、おそらくは真田丸のウィークポイントであったBの位置を突破した敵に対しての有効な対抗策といえます。
このように復元した場合、真田丸が惣構から突出した馬出曲輪であり、惣構の機能を補完、補強するものであったとする従来の説に大きな変更の必要はないものと思われます。大軍を進めるに適した上町台地上を進軍したい徳川方にとって、側面から攻撃を仕掛けることのできる真田丸は邪魔な存在で、真っ先に攻略目標となったこともうなずけます。
また、東西の曲輪を含めた真田丸全体の大きさは東西600mほど、南北350mほどです。堀で囲まれた主郭は東西長200〜230m、南北長200mの規模となります。これは、『大坂御陣覚書』にみえる「百閒四方」(1間を6尺5寸(約1.95m)として195m四方)、『慶元記』にみえる南北123間(240m)、東西79間(154m)とおおよそ一致する数値といえます。文献史料の伝える真田丸の規模が主郭を指したものだとする、積山洋さんの見解(積山2016)に賛成します。
とはいえ、考古学的な手法による真田丸の検証作業はまだまだこれから。今後の発掘調査により、少しずつその姿が明らかになっていくことでしょう。
なお、浅野文庫『諸国古城之図』所収「摂津真田丸」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。
豊臣石垣の公開施設に、あなたのご寄附を
ふるさと納税で応援