太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

御勝山古墳と秀忠の本陣跡 その2

前号に続き、冬ノ陣時の秀忠の本陣跡、御勝山の姿を追います。御勝山古墳の発掘調査は、昭和62年(1987)から64年にかけて古墳の状況を確認する目的で実施されています。また、埋設管の工事に伴って古墳の周辺部で何度かの発掘調査が行われています。

これまでの調査で、前方部では地山(※1)の高まりや、周濠の可能性のある地山の落ちが確認されています(図1)。とくに、昭和49年(1974)の74-B地点の調査では「くびれ部」の葺石(※2)や円筒埴輪、鰭付円筒埴輪などが確認され、5世紀前半に築かれた前方後円墳であることが明らかとなっています(八木久栄1974「御勝山古墳前方部緊急調査概報」『難波宮跡研究調査年報』1973、難波宮址顕彰会)。また、89-D地点では南北方向の直線的な地山の落ちのラインが見つかり、斜面部に円礫を用いた石列が見つかっています。遺構を覆う地層からは中世土器や16世紀の瀬戸美濃焼灰釉皿などが出土しており、冬ノ陣の秀忠本陣に伴う遺構の可能性があります。

一方、後円部の発掘調査では墳丘頂部から裾部に達する南北トレンチ(87-B)・東西トレンチ(87-C)を設定したほか、墳丘頂部(87-D、89-A・C)や東側のくびれ部と推定される地点(87-F)でも調査が行われています。後円部の調査では埋葬施設に関係する遺構は発見されず、盛土の単位が確認されたのみでした。古墳時代以降の遺構としては、南北トレンチ(87-B地点)の北端と、その北側の調査(87-A地点)で両地点にまたがる深い掘割が見つかっています。また、東西トレンチの西端でも墳丘北端で見つかった堀の連続と考えられる深い掘割が見つかっています(図1)。

墳丘側の堀の傾斜角はいずれも約70度ときわめて急傾斜で掘られており、防御を目的として掘られた遺構であると考えられます。堀底からはほぼ完形の丸瓦や平瓦が出土しています。墳丘測量図を見ますと、後円部の西側の等高線が直線的であり、本来円形であった墳丘が大きく削られている可能性が調査時点から指摘されていました。ただ、墳丘際で見つかる堀は現存する後円部の墳端に沿って見つかることから、墳丘が削平されたとすると、堀が掘られる以前、あるいは掘られるのと同時に行われたと推測されます(※3)。

北側の掘割は幅5m以上、深さ約4m、西の掘割は幅の確認はできていませんが深さ約3.5mの堀が見つかっています。また、古墳の北西に位置するOK90-2次調査地では幅5m以上、深さ2m以上を測る近世の溝が見つかっています。時代的に秀忠本陣にかかわる可能性がある遺構は、前方部の石列を伴う地山の落ちこみ(89-D地点)と、後円部で見つかったこれらの堀しかありません。以上の調査結果を踏まえて、秀忠本陣の姿を検討してみましょう。

図1.御勝山古墳の調査地点と遺構

図1.御勝山古墳の調査地点と遺構

(財)大阪市文化財協会2009「生野区御勝山古墳(勝山遺跡)・阿倍野区阿倍野筋南遺跡の調査」『大阪市南部遺跡群発掘調査報告』に加筆

図2.『大坂冬の陣図屏風』に描かれた徳川秀忠本陣(東京国立博物館所蔵)

図2.『大坂冬の陣図屏風』に描かれた徳川秀忠本陣(東京国立博物館所蔵)

望楼のある建物が秀忠の居室、堀外の平地を取り囲むように竹矢来が張り巡らされている。2箇所に木戸が設けられ、多数の武士によって警護されている様子が描かれている。

現在残る秀忠本陣の地形図や絵図を時系列に並べますと、もっとも古いのは『大坂冬の陣図屏風』に描かれた絵画です(図2)。その次に古いのは浅野文庫所収の『諸国古城之図』の「岡山御陣城」(図3)で、その後は明治19年の『大阪実測図』(図4)以降、近代的な地形図が存在します。

これとは別に昭和6年に梅原末治氏によって描かれた御勝山古墳の外形図(測量図ではない)があります。描かれた目的や手法は異なりますが、時代順に見てみます。『大坂冬の陣図屏風』には望楼をもつ秀忠の居所と、その手前に方向の異なるいくつもの建物が描かれています。

後円部の平坦面はいくつもの建物が建てられるスペースはなく、秀忠の居所以外の建物は後円部以外の曲輪にあったものと思われます。これらの建物が建つ周囲よりも高い曲輪の際に堀が描かれています。堀の外側にも建物があり、これらを竹矢来で囲っていて、秀忠本陣が古墳の高まりを超えて広がっていたことが推測されます。

次に、「岡山御陣城」の図をみますと東側に柄鏡形をした円形と長方形の曲輪が描かれています。円形の曲輪が最も高く、南側の長方形の曲輪からの登り口と北東側からの上り口が描かれています。

常識的に考えてこの円形と長方形の二つの曲輪が御勝山古墳の墳丘だろうと考えられます。理解が難しいのは、前方部の西側にほぼ同規模に描かれる長方形の曲輪の存在です。絵図の注記では前方部と考えられる曲輪は長さが二十三間(45.31m)あり、西側の曲輪は十六、十七間(32.50m)です。曲輪の幅は前方部も一段低い西側の曲輪も記載のある六間だとすると、合わせても24mほどで御勝山古墳の前方部に「岡山御陣城」に描かれた二つの曲輪が収まっていたと考えることは十分可能です。ただ、西側の長方形の曲輪が後円部の中軸よりも大分ずれており、墳丘に手が加えられているのだろうと考えます。

堀は後円部の西から始まり、前方部の三段の曲輪を囲むように前方部の東南端に達する「L字」状に描かれています。前方部の東側は街道まで「田畠」となっており、これは本陣を越えて南まで広がっています。本陣の東には明瞭な堀の痕跡がなかったのだろうと思われます。

図3.「岡山御陣城」(広島市立中央図書館蔵)

図3.「岡山御陣城」(広島市立中央図書館蔵)

浅野文庫 『諸国古城之図』所収

次に最も古い地形図である明治19年(1886)の『大阪実測図』(図4)を見ますと、墳丘を示すと考えられる明瞭な区画があります。ただ、明確な前方後円形ではなく、後円部から前方部に向かってすぼまり、明瞭な「くびれ」がありません。これは、「岡山御陣城」に示される前方部が広がらない墳丘の形に近いとも考えられます。

この墳丘に沿って幅10数mの区画が墳丘西側にあり、さらにその外側に20〜25mの幅で墳丘に沿うような区画が見られます。前方部の前面にあたる部分は、墳丘際の狭い区画は見られず、幅約35mの幅広い区画がみられます。墳丘に沿った狭い区画が「岡山御陣城」に描かれた堀跡に当たる可能性はあると考えますが、正直なところ、明治19年の地形図に「岡山御陣城」の図を復元することは難しいといえます。これ以降の地形図になりますと、御勝山の姿は大きく改変されてしまいます。

周濠が描かれている最も古い昭和4年の地形図(図5)の周濠と墳丘の位置を明治19年の地形図に重ねてみますと、周濠の位置は必ずしも土地区画とは一致していません(図7-①)。次に、梅原末治氏作成の外形図を明治19年の地形図に合わせてみますと、濠の幅が昭和4年の段階から明らかに広がっています。その広がりは、後円部西側付近では明治19年の墳丘に沿った区画に近いといえますが、南側は墳丘の地割と一致していません(図7-②)。

このように見てきますと、明治19年の地形図に見られる、墳丘に沿った土地区画は秀忠本陣の範囲を超えて認められると考えられ、古墳の周濠の痕跡の可能性が高いと思われます。しかし、梅原末治氏が想定された濠と墳丘の形とは違っていたように思われます。

また、秀忠本陣の痕跡は明治19年の地図に反映されているはずですが、それを読み取ることは非常に難しいといえます。検討のためには秀忠本陣の遺構確認を目的とした発掘調査をさらに充実させることが必要だと思われます。

図7.御勝山古墳の地形変遷(概略図)

図7.御勝山古墳の地形変遷(概略図)

①明治19年地形図に昭和4年地形図の堀と墳丘を重ねたもの
②明治19年地形図に梅原末治氏の外形図を重ねたもの

前月から2回にわたって御勝山古墳と秀忠本陣のことを述べてきました。新しい事実が明らかになるのではないかと期待されていた方には、肩透かしをくらったと感じられたかも知れません。御勝山古墳の理解や秀忠本陣の復元については筆者が述べてきた想定と違った理解をされた方もおられるのではないでしょうか。皆様のご意見もお聞かせ下さい。

なお、浅野文庫『諸国古城之図』所収「岡山御陣城」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。

※1、地山(じやま):人工の手が加わっていない自然の地層で、洪積層を指す場合が多い。

※2、葺石(ふきいし):古墳の墳丘斜面を石で覆ったもの。御勝山で見つかった葺石は川原石を使っていた。

※3、御勝山が「丸山」と呼ばれる本願寺の出城であったことが、岡本良一編1978『図説大坂の陣』創元社、に書かれている。発掘調査では、墳丘際の堀から完形の丸瓦や平瓦が複数出土し、いずれも大坂ノ陣よりは古いものと考えられ、墳丘際の堀が秀忠本陣以前に掘られた可能性を示している。

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