大坂冬ノ陣で徳川家康は天王寺区茶臼山に本陣を築きましたが、その時将軍であった秀忠の本陣は、岡山(生野区御勝山古墳:大阪府史跡)に築かれました。御勝山の名称については、陣を構えた秀忠が大坂ノ陣で勝利したことから、御勝山と呼ばれるようになったといわれています。
図1.豊臣後期(17世紀初頭)の古地理図中の茶臼山、御勝山
御勝山と茶臼山は直線距離で2.2km、真田出丸があった真田山とも約2.2km離れています。標高は茶臼山が27.2m、御勝山が12.2m(『マップナビおおさか』より)と御勝山のほうが大分低いのですが、我孫子台地の先端に立地し、真田丸や大坂城がある北方や東から大坂へと繋がる街道などへの視界は開けていたと考えられます(図1)。また、御勝山古墳のすぐ東側の交差点は俊徳街道・鶴橋街道・桑津街道が交差する交通の要衝でもありました(図2)。
御勝山古墳は茶臼山と同じく、梅原末治さんらが昭和6年(1931)に調査を行っています。その時の外形調査によると、全長110〜120m、後円部径54.5m、周濠幅15〜18mと推定されています。調査報告書に掲載された写真には水を湛えた濠が写っており、実測図には墳丘の西側に周濠が描かれています(写真1・図3)。
図2.御勝山古墳の現状と街道
写真1.昭和初期の御勝山古墳の状況(西から)
ところで、御勝山古墳を含む一帯は明治23年(1890)から大正15年(1925)まで府立農学校の敷地となっていました。大正15年の農学校の移転後、昭和4(1929)年に地震観測所がおかれ、同8年に気象観測所が移され、同14年に大阪管区気象台となります。「前方部」の削平は農学校の用地となった時に行われたのではないかと考えられますが、図3の断面図に見られるように前方部の高まりの痕跡は残っていたものと考えられます。写真1は調査が行われた昭和6年頃に撮影されたと考えられ、農学校が堺へ移転した直後の様子を示していると思われます。農学校が移転する前の大正14年発行の『大阪市街大地図』では府道大阪・八尾線(勝山通り)が都市計画設計線として描かれており、勝山通りによる古墳の分断は農学校の移転後、気象台の敷地となってからのことであった可能性が大きいと考えられます。
図3.御勝山古墳外形図
気象台は昭和43年(1968)に東区(現中央区)に移転し、昭和49年に、勝山通りの南側が御勝山南公園として開園されています。一方、勝山通り北側については昭和23年(1948)に御勝山公園として開園されています。
さて、御勝山古墳は昭和6年の調査では水濠を備えた形の整った古墳として描かれています(図3)。この図が典型的な古墳の姿を示していることから、古墳が築かれた当初から周濠を備えた古墳として存在し、近代になって周濠が埋められたのだろうと考えていました。ところが地形図をさかのぼって確認していきますと、明治・大正期の地図には水を湛えた周濠は描かれていません。
昭和7年に刊行された『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書』では、周濠を記述する中で、「周濠は北東の部分埋められて墳丘に密接して人家が建っているが、自余の部分では五六十尺の幅を以って規則正しく遺存、水を湛えて、それに依って本来の墳形を正しく伝えたこと図版に見る如くである。一部ではこの濠近時の掘鑿にかかると伝ふも、如上の状況から見て信じ難い。」と書かれています。この記述からしますと、水を湛えた濠が新しく掘られたと地元の方から聞いたけれど、梅原さんらは周濠が古くから存在したと考えられたのだと推測されます。
それでは、昭和6年にあった水を湛えた「周濠」はいつ出現したのでしょう。私が確認できた地図で「周濠」が描かれている最も古い地図は昭和4年の一万分の一地形図です(図4)。この地図では古墳の後円部から西側にかけて水路のような「周濠」が描かれています。これ以前の地形図では明治31年に修正が加えられた『大阪近傍図』(図5)や、明治19年測量の陸地測量部の『大阪実測図』(図6)、大正14年(1925)刊行の『大阪市街大地図』では水を湛えた周濠は描かれていません。
図4.昭和4年(1929)地形図中の御勝山古墳
図5.『大阪近傍図』中の御勝山古墳
図6.『大阪実測図』
このことからすると、昭和6年の調査の時に確認された周濠は、昭和初期に新たに掘られた可能性があると考えられるのです(※1)。もちろん、このことが古墳の築造当初に水を湛えた周濠があった可能性を否定するものではありません。「周濠」は昭和33〜34年の公園整備に伴い埋められ、児童遊戯場として整備されています。このように、御勝山古墳については明治以降、何度も大きな改変が加えられているのです。
次に、本稿の本来の目的である大坂冬ノ陣の時に御勝山がどのような姿であったのかを考えてみたいと思います。『浅野文庫諸国古城之図』に、御勝山を描いた「岡山御陣城」の図が収められています(図7)。絵図を見ますと、前方後円形を呈した曲輪の西側に「前方部」とほぼ同規模の長方形の曲輪が描かれています。この曲輪には「十七八間ホト 外ヨリモ卑(ひく)シ 六間余」と書かれています。17・18間も他より低いということは考えられませんので、17・18間と6間が曲輪の広さを示すもので、外ヨリモ卑シは「前方部」より低いということを示しているのだろうと考えられます。
また、堀の痕跡は「後円部」の途中から西側に本陣を巡るように描かれています。この痕跡は前方部南東隅にあたる部分まで延び、その途切れた部分が曲輪(墳丘)への登り口となっています。堀と考えられる部分は、後円部に接する一部が池で、他の部分は「平地ヨリ 此堀深サ 二間余 浅田也」と書かれており、水田になっていたことが分かります。
この「岡山御陣城」図と昭和初期の御勝山の姿は直接的には結びつきにくいのですが、次回、発掘調査の結果などから冬ノ陣時の御勝山の姿を考えます。
なお、浅野文庫『諸国古城之図』所収「岡山御陣城」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。
図7.「岡山御陣城」浅野文庫『諸国古城之図』所収
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