太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

「金明水」井戸と「銀水」井戸の調査

徳川期大坂城本丸には5基、山里丸には2基の井戸がありました。国立国会図書館所蔵の『大坂築城丁場割図』を見ますと、本丸中・東部に4基(図1-①〜④)と、数奇屋櫓の前(図1-⑤)に井戸が描かれています。この中で最も有名な井戸は小天守台の中にある「金明水」井戸(図1-①)でしょう。

井戸を覆う屋形は徳川期から残った建造物で、大阪城に13棟ある重要文化財の一つです(写真1)。この井戸は本来「黄金水」と呼ばれていましたが、いつしか「金明水」となり、今ではその名称が定着しています。徳川期の絵図には「金明水」と書かれた井戸はなく、天守台の東側にある井戸(図1-②)に「金水」と書いた絵図があります。「黄金水」と「金水」が混同され、さらに「金水」が「金明水」と間違って伝えられたのではないかと考えられます(※1)。

さて、小天守台にある現在の金明水井戸については、秀吉が水を清めるために井戸に黄金を多数沈めたという伝承がありました。本当に豊臣期に造られた井戸が徳川期にも使われたのでしょうか。豊臣期の「本丸図」に描かれた井戸の位置(図3)と、徳川期の井戸の位置を比べると同じ場所を示しているのではないかと考えられる地点があり、徳川期の井戸は豊臣期に掘られた井戸がそのままかさ上げされて使われているのではないかという推測が根強くあります。金明水井戸の黄金伝説も秀吉が築いた井戸が徳川期にも使われたことが、前提となっているのです。

図1.徳川期本丸・山里丸内の井戸

図1.徳川期本丸・山里丸内の井戸

大坂城普請丁場割図(国立国会図書館所蔵)に加筆
①金明水(本来の黄金水)②金水 ③銀水

写真1.金明水井戸と屋形(重要文化財)(図1-①)

写真1.金明水井戸と屋形(重要文化財)(図1-①)

そんなこともあって、昭和34年の「大坂城総合学術調査」では、金明水井戸にまつわる謎の解明が重要な調査目的の一つとして実施されました。この調査で明らかになったことは、昭和34年4月30日の読売新聞に詳しく紹介されています。

発掘開始時点の井戸底から1mまでは、硬貨やピストルなどの軍に関係する遺物、1.7m以下からは兜やツルベ、徳利など江戸時代に埋まった遺物が出土しています。また、3.5m下でさらさらした砂地に変わり、その下は遺物もなく約2m下に硬い土の層があることが棒を刺して確認されています。

金明水井戸の発掘を紹介した佐藤佐さんのイラスト(図2)を見ると、発掘によって層位的に遺物が出土したことがよく分かります。井戸の深さについては、新聞記事には「井戸ワクから水面まで28.2m」と書かれています。その深さに発掘で掘った3.5mと棒を突き刺して確認した約2mを足すと33.7mとなりますが、はっきりした井戸底が確認されていないことから、正確な数値は不明です。

このように、出土遺物からは徐々に井戸が埋まっていった状況が明らかになりましたが、豊臣期にさかのぼる出土遺物は見られなかったようです。しかし、井戸側に積まれた石材は途中から明らかに異なる積み方をしていることが確認されています。

図2.金明水井戸調査のイラスト

図2.金明水井戸調査のイラスト

佐藤佐1966年「大阪城本丸内金明水の発掘(下)」より『城郭』第8巻第1号所収

新聞記事では、「上層約8mに整然とした切り石を積み、その下は割り石のまま荒く積んである。切り石には刻印がなかったが、割石には底の石部分にまで刻印11種類と同じような模様を書いた墨書きのもの9種類が発見された。」と書かれています。読売新聞に掲載された写真を見ますと、確かにある高さを境として積み方がガラリと変わることがわかります。

割石が豊臣期に積まれ、切石が徳川期に積み足されたということであれば豊臣期に掘られ、徳川期に継ぎ足されたという想定が裏付けられるのですが、底にある割石にまで刻印があることから、すべて徳川期に積まれたものであると考えなければなりません。

それではなぜ、上から8mのところで積み方が変わるのでしょう。徳川期の天守台はすべて盛土によって築かれています。現在の本丸地表面と天守閣入り口付近では約9mの高低差があります。井戸の位置は天守閣入り口部分より一段低いところにありますので、8mという数値は天守台の盛土高さにおおむね合致します。推測ですが、天守台を築く前に掘った井戸の石積みが割石部分であり、天守台の盛土にあわせて積み上げられたのが切石部分であったと考えることができるのではないでしょうか。

大坂城総合学術調査によって小天守台の上にある金明水は、すべて徳川期に築かれたものであると考えられるようになりました。では、そのほかの井戸はどうなのでしょうか。現在、豊臣期と徳川期の井戸が同じ場所を示しているのではないかと考えられているものに、図1の③・④・⑤・⑥があります。豊臣期の絵図では図3の③・④・⑤・⑥になります。

この中で、現在も開口している井戸が石垣公開現場のすぐ南側にある図1-③です。この井戸は徳川期に「銀水」と書かれ、井戸がある位置は、豊臣時代には井戸曲輪と呼ばれていた場所に当たる(図3-③)ことから、下部が豊臣期の井戸でその上に徳川期の側石が積み足されているのではないかと推定されているものでした。

その確認を目的として「歴史遺産としての石造構造物の土木史的研究に関する研究会」によって平成14年(2002)に小型カメラを使った調査が行われています。調査では鮮明な画像を撮影することができませんでしたが、上部の石材は縦に鑿跡(のみあと)が筋状につくもので、下部の石材には割石が使われているようです。しかし、金明水井戸のように築造時期を検討することができる明確なデータを得ることはできませんでした。

しかし、豊臣期の井戸の位置と徳川期の井戸の位置が絵図の上でほぼ同じ位置にあるということは偶然とは考えられません。豊臣期の井戸が再利用されたのでは、という推定は説得力をもっているのです。

いろいろな技術が日進月歩の現在、改めて銀水の調査に挑戦し、井戸の構造の検討によって豊臣期から徳川期の大坂城の変遷に迫りたいものです。

「浅野文庫所蔵 諸国古城之図 大坂(摂津)」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。

図3.豊臣期本丸・山里丸内の井戸

図3.豊臣期本丸・山里丸内の井戸

③・④・⑤・⑥の井戸が徳川期と同じ位置にあると考えられている。
広島市立中央図書館蔵「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」所収 に加筆

※1:志村清さんのご教示によると、小天守台の井戸を「金明水」とした最初は昭和6年(1931)大阪市役所が天守閣の竣工記念として発行した『大阪城』で、その後、昭和28年の重要文化財指定に伴い「金明水」とされたことが名称の定着につながったのではないかとのことであった。
なお、上記『大阪城』には、2枚の折込図があり、「大阪城天守閣各階平面図」では「黄金井戸」、「大礼記念大阪城公園」では「金明水」と記されている。

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