公開予定の豊臣期詰ノ丸石垣のすぐ北側に石垣を巡らせたこんもりとしたマウンドがあります。
この盛り上がりは、明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池です。現在は土に覆われていますが、土の下に巨大な貯水槽が埋まっているのです。何度も改修されていますが、中央区・天王寺区(※)の一画に今も給水している現役の施設です。
今でこそ、大阪城の本丸の中にこんな大きな配水池をなぜ造らなければならなかったのかと思われる方も多いと思いますが、当時は周辺で最も標高の高かったこの場所が選ばれたのです。図面を見ると配水池は地下に掘りこんだ施設ではありませんので、徳川期の大坂城も豊臣時代の大坂城も配水池の下にしっかりと残っていると考えられます。
写真1.豊臣石垣公開予定地と配水池
写真2.大阪城航空写真
大阪城を訪れボランティアガイドをお願いすると、大手門から本丸に向かう途中の太鼓櫓の手前に刻印石があり、そこで刻印石の特徴と徳川大坂城の石垣の特徴を紹介していただけるスポットがあります。
そこに立つと、確かに本丸南西部の石垣の算木積の様子がよく観察できるのですが、その先に空堀を横切る2条の大きな鉄管が目に入ってきます。徳川期の優美な石垣曲線に感動しながらも、鉄管を見て「なんと場違いな」と感じられている方も多いのではないかと思います。
この2条の鉄管は配水池へ水を揚げる「上り管」と配水池から家庭へ給水する「下り管」です。私も初めて見た時は江戸時代の堀の中に近代的な施設があって何とかならないのだろうかと思いましたが、この管も配水池が建築された明治時代にさかのぼるものだと聞くと、その古さに驚かれるのではないでしょうか。
写真3.空堀を横切る配水管
明治から第二次世界大戦終戦まで、大阪城ホールや太陽の広場、JR森ノ宮駅のあたりまでの広大な地域に陸軍の武器を製造した「大阪砲兵工廠」がありました。砲兵工廠は武器の製造以外に水道管や橋梁の部材なども製造しており、この管も砲兵工廠で生産されたものです。このように考えますと公開予定の石垣に隣接する配水池も、堀を横切る鉄管も大阪城の歴史を物語る重要な「歴史遺産」と言えるでしょう。
今回公開を予定している昭和59年の豊臣期詰ノ丸石垣発見の契機となったのが、配水池の改良工事であったことは豊臣期の地下石垣と大阪城の水道施設との浅からぬ関係を感じずにはおれません。
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