太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

大阪城断面図のいろいろ

太閤なにわの夢募金に1万円以上のご寄付をいただいた方にお送りする記念メダルの台紙には、豊臣秀吉の画像と共に徳川期と豊臣期の本丸の重なりを示した断面模式図を印刷しています(図1)。この断面図は宮上茂隆氏が発表している断面図を基に、事務局で作成したものです。豊臣期と徳川期の大坂城の重なりを描いた断面図はこれ以外にも何種類も作られていて、いくつかの図を見られた方もあるかと思います。

図1.太閤なにわの夢募金記念メダル台紙の断面模式図

図1.太閤なにわの夢募金記念メダル台紙の断面模式図

図2は大阪城研究の基本文献である渡辺武氏の『図説再見大阪城』に示されている断面模式図です。自然の地形と二時期の城の重なりが非常に分かりやすく表現されています。しかし、この書籍は昭和58(1983)年に刊行されていますので、昭和59年に発掘された詰ノ丸石垣の情報は反映されておらず、昭和34(1959)年に発見された地下石垣を本丸詰ノ丸石垣と推定した復元図となっています。その後の発見で、豊臣期の詰ノ丸の地面がもっと高くにあったことが明らかになります。

図2.渡辺武1983『図説再見大阪城』で示された断面模式図

図2.渡辺武1983『図説再見大阪城』で示された断面模式図

図3は宮上茂隆氏の断面模式図です。赤色が現在の本丸断面、水色が豊臣期の本丸断面を示しています。昭和34年に発掘された石垣を詰ノ丸より一段低い中ノ段の石垣と復元しているため、詰ノ丸が現在の地表面とほとんど変わらない位置に復元されています。昭和59年の発掘によって、この復元が正しかったことが明らかとなります。

図3.宮上茂隆氏の断面模式図(赤ラインが現本丸断面)

図3.宮上茂隆氏の断面模式図(赤ラインが現本丸断面)

宮上茂隆1984「秀吉築造大坂城本丸の復元」『季刊大林』No.16より

図4は、先月号で紹介したコーン貫入試験の結果を基に復元した本丸東側の推定断面図です。宮上氏の断面模式図と異なる点は、徳川期大坂城の堀を豊臣期大坂城の堀より深く描いていることです。本丸東側の現石垣の高さは水堀部分も含め、約32mであることが確認されています。徳川期の内堀は豊臣期大坂城の内堀より深くまで掘りこまれたと考えられます。しかし、豊臣期の堀の位置と深さを具体的に示す資料は現在のところまだ見つかっていません。

図4.コーン貫入試験によって明らかとなった本丸東側の推定断面図

図4.コーン貫入試験によって明らかとなった本丸東側の推定断面図

図5は他の図と異なり、大阪城を南北に断ち割った断面図です。北に向かって地形が低くなっている様子や、それぞれの堀の深さ、徳川期の井戸の深さの関係がよくわかります。大阪城の堀の水が地下水であることは有名ですが、豊臣期大坂城の堀も地下水位に達していたと考えられます。豊臣期大坂城の南北断面を描いたものはほとんどなく、重ね合わせて表示できないのが残念です。

図5.大阪城地盤図(建設文化として大坂城石垣築造に関する研究会1977より作成、一部改変)

図5.大阪城地盤図(建設文化として大坂城石垣築造に関する研究会1977より作成、一部改変)

これら以外にも大阪城の断面を描いた図は種々あります。最近では、大阪城周辺のボーリング調査の検討から上町台地の地形が縄張り(曲輪や堀の配置)に影響を与えているのではないかという研究が行われるようにもなってきています。今後も研究の進展によって新しい断面図がいくつも描かれることでしょう。これからも新しい情報を紹介していきたいと思います。

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