太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.5

再発掘された豊臣石垣の特徴

30年ぶりに発掘された豊臣大坂城の石垣公開については、前回のコラムで紹介しました。

現存する徳川期の石垣に比べ、一見して古さを感じさせる野面積の石垣が地中深くに埋まっている姿は、見学に訪れた方々に豊臣期と徳川期の遺構が重層する大坂城の歴史そのものを体感していただけたのではないかと思います。今回は、再発掘された石垣石材の特徴の一端を紹介します。

豊臣期大坂城の中心部である詰ノ丸石垣に使われた石材には、本来別の用途に使われていた石材が運ばれて再利用されたものが多く含まれています。隅角石に使用された石材の中には、3個の花崗岩製の礎石が確認されています(図・写真1)。

図.昭和59・60年発掘の石垣東壁立面図(大阪市文化財協会『大坂城跡』Ⅵより)

図.昭和59・60年発掘の石垣東壁立面図

(大阪市文化財協会『大坂城跡』Ⅵより)

写真1.石垣に使われた古代の礎石(南から)

写真1.石垣に使われた古代の礎石(南から)

礎石の特徴は石材の中央に2段に造られた円形の柱座が造り出されていることです。下段は直径約80㎝、高さ7㎝の突起があり、その上に直径約55㎝、高さ2㎝の柱座が造り出されています。3個の礎石とも上段の柱座の周りに2条の溝がめぐらされるという同じ特徴を持ち、一つの建物に使われていたのではないかと考えられます(写真2)。歴史的な背景から難波宮に使われていた礎石ではないか、大坂本願寺の礎石ではないかとも考えられましたが、現在では古代寺院の礎石ではないかと考えられています。

隅角石の上から2石目には直方体の凝灰岩が使われています。鑿(のみ)による加工痕がよく残っています。凝灰岩は古墳時代の石棺に使われることが多く、姫路城の石垣にも凝灰岩製の石棺がいくつも使われています。詰ノ丸石垣で見つかった凝灰岩は刳(く)り抜きがなく石棺ではありませんが、石棺の未製品の可能性はあります。

野面積の石垣の特徴として、大きな石材と石材の間に「間詰め石」といわれる小さな石が多数詰められています。詰ノ丸石垣の間詰め石に目立つのは、花崗岩製の石臼が多数使われていることです。擂(すり)目は粗く、石の厚さもバラバラですが、石と石の隙間を埋めるためには手ごろな厚みだったのでしょう(写真3)。また、間詰めとはいえないかもしれませんが、石を配置するための微調整の材料として利用されているものに、瓦があります。比較的厚手の平瓦が使われています。秀吉が石垣を築いた時に使用しているものですから、大坂城の瓦ではなく、豊臣大坂城以前の本願寺の時代に使われた瓦だと考えられます。これらは偶然に使われたものではなく、石に代わる材料として使われています(写真4)。同じように、石垣裏に詰められた裏込めにも砂岩製の一石五輪塔の破片や、花崗岩製の石仏などに加え、備前焼や信楽焼といった焼締(やきしめ)陶器の破片や瓦が多く含まれています。

このように見てきますと、詰ノ丸石垣は想像以上にあわただしい作業のなかで築かれたことを示しているのかもしれません。

しかし、詰ノ丸石垣には、昭和34年発見の中ノ段石垣と比較すると明らかに大きな石材が使われています。京橋口周辺や玉造口周辺で発見される豊臣時代の石垣と比較してもその違いは明瞭です。このことは、公開予定の石垣が豊臣期大坂城の中枢を占めた重要な石垣であったことを示しているといえます。今回は公開予定範囲の一部だけを再発掘しましたが、全体が姿を現す予定の2015年度の調査をご期待ください。

写真2.礎石①に刻まれた柱座の線刻

写真2.礎石①に刻まれた柱座の線刻

写真3.間詰め石として利用された石臼

写真3.間詰め石として利用された石臼

写真4.石材の間に挟みこまれた平瓦

写真4.石材の間に挟みこまれた平瓦

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