平成25年度から始まりました豊臣石垣公開プロジェクトに伴う発掘調査として、平成25年7月から10月まで行った第1期調査、平成26年1月から3月まで行った第2期調査が無事終了しました。第1期調査については本コラムでも現地公開の様子や、発掘調査で見つかった徳川時代の鬼瓦について紹介しました。第2期調査は本プロジェクトで公開する豊臣大坂城の石垣の一部を掘り出し、保存状況を確認することが大きな目的でした。現地公開の様子は、フェイスブックやツイッターで速報させていただきましたが、今回は第2期調査で分かった石垣の様子や現地説明会の様子を紹介します。
写真1.現地説明会の様子
写真2.梁の隙間からのぞく豊臣大坂城の石垣
平成26年3月7日(金)〜9日(日)の3日間にわたり、第2期調査の現地公開を行いました。3日とも晴天に恵まれたことや、事前に新聞やテレビで大きく報道されたこともあり、3日間で10,700人もの方々が約400年の時を超えて現れた秀吉の石垣を見学に来てくださいました。
今回発掘した石垣の範囲は幅約2m、高さ約5mと広くはありませんでしたが、石垣の特徴がもっともよくあらわれる隅角部を調査し、見ていただくことができました。
しかし、安全を確保するため矢板や梁を入れての調査となったため、地上から見える石垣は梁と梁の隙間から覗いていただく状況でした(写真2)。現存する徳川期の優美で巨大な石垣を見ながら発掘現場まで来られた皆さんには、現場を一目見ただけで、豊臣石垣の古さが実感していただけたようです。見学者からは「さすが太閤さんの石垣は迫力満点や」「いいものを見せてもらいありがとう」など暖かい声をかけていただきました。
ご存知の方も多いと思いますが、この石垣は、昭和59・60年の調査で一度発掘されていたものです。前回の発掘から30年ぶりに再発掘したことになります。前回の発掘の様子は、昭和60(1985)年4月3日の夕刊各紙に大きく取り上げられています。当時の読売新聞の記事を見ますと、「〝太閤石垣〟見つかる」「幻の築城解明進む 夏の陣で焼けた跡も」と秀吉が築いた幻の城の実態解明が一気に進むことへの期待が書かれています。昭和60年4月7日に実施された石垣の現地説明会では、小雨の中5,000人もの方々が見学に訪れたのです。
さて、再発掘された豊臣大坂城の石垣は、自然石を積み重ねる野面積みであること、隅角部に直方体の石材を交互に組み合わせて積みあげる「算木積」の技法が見られることが石垣築造技術の特徴といわれています(写真3)。写真4は元和6(1620)年から工事が始まった乾櫓下の徳川再築の石垣ですが、直方体に加工された石材が2本ずつ交互に規則正しく積み重ねられています。一方、豊臣期大坂城の隅石は細長い石材を交互に組み合わせてはいますが、角脇石に相当する石材の形が不定形です。また、徳川期大坂城に見られるような切り石はまったく見られません。
詰ノ丸石垣が築造されたのは天正11(1583)年ですから、徳川大坂城が築き始められる37年の間に石垣築造技術が飛躍的に発達したことがわかります。
写真3.下から望んだ石垣の姿
写真4.乾櫓の建つ石垣
図.算木積模式図
天下統一は信長から秀吉に引き継がれ家康によって完成しますが、築城技術も信長の安土城から秀吉の大坂城や聚楽第、伏見城に引き継がれ、徳川幕府の名古屋城や江戸城、大坂城によって完成されたといえます。豊臣大坂城の石垣公開によって、大坂城跡では、豊臣期と徳川期の当時もっとも進んだ築城技術によって築かれた二つの石垣の姿を同時に見ることができる国内でも稀な史跡となります。
今回の公開では豊臣石垣の姿を垣間見ていただくことしかできませんでしたが、次回のコラムではもう少し詳しく豊臣石垣の特徴について紹介します。
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